各地でヨーグルト料理に出会うたび、その世界の広さにはつくづく驚かされるが、中でもヨルダンのマンサフという料理は印象に強く残っている。真冬のヨルダンの台所で、ヨーグルトの大鍋から湯気が立ち上る光景は、あの時のにおいと共にふと思い出される。
いざ、真冬の砂漠国へ
ヨルダンはアラビア半島の付け根に位置する。国土の約8割は砂漠気候で、アラビアのロレンスやインディ・ジョーンズの舞台になった国といったらイメージがつくだろうか。もちろん多くの人々は砂漠ではなく街に生活しているが。
この国の台所を訪れたのは12月のこと。中東だからきっと暑いのだと想像していたのだが、植生の乏しい土地というのは寒暖差が激しいもので、首都アンマンの街に着いたら東京並に冷えていた。
街は白い石造りの建物が立ち並び美しいものの、石なので中に入るとひんやり冷たくて、「家に入っても寒いなんて...」と絶望した。お世話になった家庭も白い石造りの建物。丸い石油ストーブに身を寄せる日々が始まった。
台所はさらに冷えていた。この家は夫婦と大学生の息子二人の四人暮らしで、台所に立つのは母さん。「今日はマンサフを作ろう」と言う息は白く、私は水で手を洗うと指先がかじかみ、もう早く火をつけたくて仕方なかった。
マンサフというのはヨルダンを代表する料理で、煮込んだ羊肉をターメリック色のライスに乗せ、大皿を囲んで大勢で食べる料理だ。宴や外国からお客さんが来る時はまずマンサフと言われるほど。とはいえ決して非日常的なご馳走というわけではなく、毎週のように作るものだという。
ヨーグルトの準備は前日から
母さんはまず、流しの横に置いた白いバケツに手を伸ばした。中を覗き込むと、白く濁ってざらっとした液体が入っている。「ジャミードを、昨晩水に入れておいたんだよ」と言う。
ジャミードはヨルダンに住む遊牧民ベドウィンが作る乳製品の一つで、カチカチに乾燥させたヨーグルトだ。真っ白ではなく少しくすんだ色で、握りこぶし大の大きさがある。これを市場で初めて見かけた時は石にしか思えなかった。しかし鼻を近づけるとつんと酸っぱい発酵臭がするので、ヨーグルトなのだろう。
ジャミードは水分がないので長期保存でき、輸送や保存に便利という利点はあるものの、こうも硬いと思い立ってすぐ使えるわけではない。使うときはひと晩水に浸し、ある程度やわらかくなったのを、ミキサーにかけて完全に溶かすのだ。白いバケツの中身をミキサーに入れて何度かガーっとすると、均一でなめらかな白い液体になった。
ガスコンロには大鍋が鎮座。ついに私が待ち望んだ火がつけられた。ジャミードが溶けた液を一気に投入。母さんは「火を強くし過ぎると分離しちゃうんだよ」と慎重に弱めの火加減を調整しながら、「かき混ぜてて」と私にへらを渡す。
ぱっと見ミルクのようだけれど、ミルクではない。しばらく混ぜていると、湯気と共につんと酸っぱいにおいが立ち上ってきて、味見したら塩気もけっこうある。今まで見たことのないタイプのヨーグルトだし、こんな大鍋でヨーグルトを煮るのも初めてだ。期待と不安が入り混じる。
かき混ぜ続ける私の隣で、母さんは鍋をもう一つ取り出した。鶏肉を煮るのだ。刻み玉ねぎとにんにく、大ぶりの鶏肉を入れて、ターメリックやカルダモンなどのスパイスも投入。
「本来は羊肉なんだけどね。今はチキンも一般的。うちは子どもたちが羊肉はヘビーだっていって嫌がるから鶏肉で作るの。まあ安くてありがたいからいいけれど」
そう母さんは苦笑する。火をつけて軽く炒め、ジュージューといい音がしてきたところに水を入れ、しばらく煮込む。二つの鍋から上がる湯気で、ほんの少し台所が暖かくなってきた。
20分ほど煮たら、鍋を傾けてスープの一部をジャミードの鍋に注ぎ入れ、鶏肉も投入。まさか、そうきたか! 真っ白だったジャミードの鍋が黄色に染まっていく。大鍋のヨーグルトにチキンが浮かぶ光景は、なかなか新鮮で、どんな味になるのかドキドキする。
残りのスープは、米を炊くのに使う。黄色が鮮やかなターメリックを加え、塩とサムネ(精製バター)も入れて火にかけた。
米が炊けたら、食事の支度は完了だ。母さんは抱えるほどに大きな銀色のお盆を取り出してきて、布のように薄く大きいパンを敷いた。そこにご飯の鍋をひっくり返すと、マンガのように大袈裟な湯気と共に、鮮やかな黄色のご飯がなだれ出た。
そこにチキンを並べ、炒ったアーモンドと刻みパセリを散らしたら美しい仕上がりに。ところが、なぜかまたパンをかぶせて覆い隠してしまった。
せっかくきれいに盛り付けたのにと思ったが、これだけ湯気が上がり続けていたらあっという間に冷めてしまいそうだし、食卓でぱっと開けるプレゼンテーションも楽しそうだし、パンで覆うのは何かと都合がいいのかもしれない。
いざマンサフ。ヨーグルトはソースでまとめ役?
マンサフを食卓に運ぶと、家族が集ってきた。鍋に残った黄色いヨーグルトソースは、器によそって各人の手元に。これをかけながら食べるのだという。
「正式なマンサフの食べ方はね...」と教えてくれたのは、取り皿もスプーンもなしで、マンサフを囲んでヨーグルトソースをかけながら、ご飯と肉を片手でにぎって丸めて口に放り込むというもの。遊牧民ベドウィンの伝統スタイルだ。
気合を入れて腕まくりしたが、「うちは子どもたちがスプーンで食べたがるの」と言ってスプーンが配られたので従うこととした。
上にかけたパンが外され「いただきます」。父さんの食べる様子を横目で見ると、スープは全体にかけるのではなく、自分に近い部分に食べる分だけ少しずつかけるようだ。私も同様にかけ、スプーンで軽く混ぜると、パラリと炊けた米粒にとろっとしたヨーグルトソースが絡んでまとまりがよくなっている。
肉も少しとってのせて口に運ぶ。予想外にコク深い! 発酵乳特有の酸味や塩味は、長時間煮込んだためかまろやかになっていて、骨ごと煮込んだ鶏肉のうまみと合わさり深い味わいを生んでいる。
野性的な風味があるのは、ジャミードが羊やヤギのミルクで作られるからだろう。ややくせがある味なのだが、それゆえにはまってしまい、手が止まらない。一同黙々と食べ進め、そのうち各自食べ進めた領域が隣同士つながって皿の真ん中だけが残った頃、皆満腹になったようでスプーンを置いた。
遊牧民と都市住民の交流から生まれた国民的料理
しかしなぜジャミードは、石のようにカチカチにするのか。
時を遡ると、ジャミードは遊牧民ベドウィンが都市定住民に売るためのものであったという歴史が浮かび上がってくる。彼らが生活する砂漠地帯から都市へ、そうしょっちゅう行けるわけではない。そこで日持ちする乳加工品としてジャミードが生まれたというわけだ。
一方、マンサフに使う米は砂漠では育たず、都市のもの。マンサフは都市住民と砂漠の遊牧民との交流によって生まれた文化的に重要な料理として、ヨルダンの国民料理とされ、ユネスコ文化遺産にも登録されている。
都市住民からしたら、今は冷蔵流通もあるし、ジャミードではなくフレッシュなヨーグルトが使えるわけだが、それだと味わいが物足りない。この酸味や塩味やクセがあってこそ、マンサフだ。ジャミードをひと晩つけておくのが面倒という人も、ヨーグルトではなく液体ジャミードというボトル入りの商品を使う。
土地が変わると、こうも違ったヨーグルト文化があるものか。この地の風景と歴史が立ち上がってくるようなヨーグルト体験であった。