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和食にワインの二代目は元ラクロス日本代表。ヨーグルトのように当たり前にいる存在になりたい/小田島大祐さん【わたしをささえるもの】

ヨーグルト愛の人々 2023.07.21

和食にワインの二代目は元ラクロス日本代表。ヨーグルトのように当たり前にいる存在になりたい/小田島大祐さん【わたしをささえるもの】

クリエイティブで感動的な料理を生みだすシェフや料理人には、必ず尊敬する人や忘れられない思い出などの「ささえる存在」があります。それは、毎朝食べるヨーグルトのように当たり前にあるからこそ、あえてメディアで話さなかったことも多くありそうです。

連載「わたしをささえるもの」では、そんな「ささえる存在」に注目し、シェフや料理人の意外な一面や、人生観・仕事観に触れながら、食のプロならではのヨーグルトの意外な使い方や魅力を語ってもらいます。

連載第4回は、日本でいち早く和食にワインをあわせ、食通の著名人や文化人を唸らせる名店「小田島」の二代目で、料理人でありソムリエでもある小田島大祐さんです。

高校生の頃から父・稔氏の店「小田島」でアルバイトをはじめ、30年以上レストランに関わり続ける人生をささえてきたのは、「ポジティブな想像力」だといいます。

有名すぎる「ムッシュ小田島」の息子として

日本でプレーンヨーグルトがはじめて発売されたのは1971年のことです。1970年に開催された大阪万博のブルガリア館の会場で紹介されたことがきっかけでした。およそ6,400万人が来場した大阪万博では各国料理やアメリカ式のファーストフードなど多くの欧米の食文化が伝えられたのです。

ほかにも、たとえばワインは、大阪万博を機に、日本で広く知られるようになり、大阪万博後の1973年には、ワインの消費量が162%増となり、この年は「ワイン元年」とされています。

日本の外食が大きく変わろうとしていた時代、1972年にフランスから帰国した小田島さんの父、稔氏は、実家の店「お田しま」(東京、芝)を手伝いをした後、1976年に「有栖川」(東京・広尾)を開店しました。「有栖川」では当時誰もやっていなかった割烹料理にワインを合わせるスタイルを生みだすと、その後、長野県松本市への移転を経て、1990年に「小田島」(東京・神泉町)を開店します。和食にワインの本家本元、そしてつねに時代をけん引するパイオニアとして東京の食通を魅了してきました。

1990年代中頃、高校生になった小田島さんは、神泉町の「小田島」で皿洗いのアルバイトをはじめます。当時は、まだバブルの余韻が残る時代。見たことのある芸能人や、有名な会社の役員が毎日のように来店する、まさに歴史をつくった人気店での皿洗いは、洗っても洗っても終わらないほど忙しかったといいます。

「だからといって『辛くて嫌だな』というよりも、『なんでこんなにお客様がいらっしゃるんだろう』と考えていました。『ムッシュ(フランス語で男性への敬称)』と呼ばれている父の店に何かしら魅力があることがわかったのと、そういった人が集まる場所としてのレストランに興味をもちました」

皿洗いをする小田島さんの立ち位置は、ゲストから見えない奥のキッチンではなく、50席ほどの客席から見られるカウンターキッチンの中でした。「とはいえ、長いカウンターのいちばん端ですから、座るお客様はほとんどいないんですよ。それで、いかにカッコよく見える皿洗いの仕方を考えながらやっていました」と、小田島さんらしい優しい笑みを浮かべながら、当時を振りかえります。

カッコよく元気に、キビキビと動いていた小田島さんを見たゲストから「お兄ちゃんおもしろいね」と声をかけられることもありました。高校生になって、「小田島の息子」や「ムッシュの息子」として見られることに戸惑いを覚えていた小田島さんにとって、父とは関係なく「アルバイトの好青年」として話しかけられたことが、素の自分自身をみてもらえたようでうれしかったのです。

皿洗いを経験したことでレストランの奥深い魅力を知り、家業を継ぐことを本格的に決意した小田島さんは、高校卒業後に料理修業に入ろうと稔氏に相談します。しかし「大学に行って友人をたくさん作れ。それで卒業して、料理屋をやりたければやればいい。もし料理屋を開いたときに友だちがいれば、1回目は来てくれるから。ただし、2回目以降は自分の実力だぞ」といわれ、進学することになります。

有名すぎる「ムッシュ小田島」の息子として
有名すぎる「ムッシュ小田島」の息子として
有名すぎる「ムッシュ小田島」の息子として

ラクロス日本代表としてW杯に出場

子どもの頃から気管支喘息の持病をもち、身体が弱かった小田島さんは、体力をつける目的でスポーツを積極的にしてきました。中学校では、バスケットボール、高校では、ラグビー。その頃にはじゅうぶんに身体は強くなり、立派なスポーツ青年に成長していました。大学進学後もスポーツを続けた小田島さんは、新たにラクロスに挑戦します。

ラクロスは、北米発祥の球技で、日本に入ってきたのは1980年代半ば。小田島さんが大学生の頃は、競技人口が極めて少ないマイナースポーツでした。とはいえ、1993年に放映され平均21.8%の高視聴率を記録したテレビドラマ『じゃじゃ馬ならし』の主人公の女子大学生がラクロス部の設定で、スタイリッシュな新しいスポーツとして脚光を浴びはじめていました。

小田島さんのポジションは、攻守のバランス役であるミッドフィルダーです。大学卒業する頃には、着実に実力をつけ日本代表選考に声をかけられるようになります。大学卒業後は、「小田島」に勤めながら実業団チームに入り競技を続けた小田島さんは、見事1998年にアメリカ・ボルチモアで開催されるワールドカップの日本代表に選ばれます。

大会では「ソムリエ小田島」の愛称で予選から出場を続けました。日本にとって2度目のワールドカップ出場で、11カ国中8位という結果を残して帰国します。

「競技人口もまだ少なかったですから、自分がチームの中心になるような上手いプレーヤーでなくても、そのときの代表や戦術からどういう選手が欲しいのかを考えれば、代表入りする可能性は低くない。社会と同じで、足りない駒になれば重宝されるんです。それに、ラクロスの日本代表になれたのは、父ありきの自分とは別に、自分だけで成し遂げたという別枠の誇りのようなものを感じて、頑張れたんだと思います」

ワールドカップ後は、「小田島」の仕事に専念をし、六本木店(現在の「小田島」)と三軒茶屋店を統括してマネージメントしながら繁盛店に育てていきます。

「『喘息で身体が弱い子だから』とか『小田島の息子でサラブレッドだから』と特別扱いされたくなかったんです。それをネガティブに捉えて反発するんではなく、自分の中で気にしないでいい方向にやってればいいじゃないかという感じで、いかに自分のマインドを良い方向に持っていくかを考えていたんだと思います」

小田島さんは、これを「ポジティブな想像力」といって、自分自身をささえ続けたものだといいます。

ラクロス日本代表としてW杯に出場
ラクロス日本代表としてW杯に出場
ラクロス日本代表としてW杯に出場

父が倒れて考えた「ポジティブに未来を描くこと」

2022年3月に父・稔氏が脳梗塞で倒れて店を離れてから、小田島さんは厨房に立ちながら接客をし、ワインセレクトにいたるまで一人で店を切り盛りしています。

「去年一年は、父がやってたことをちゃんとしなければいけないという必死感がありましたが、今は自分の店として考えるようになりました。そのきっかけは、父が戻ってこないんだってわかったことが大きかったです。倒れた直後は、希望の光を持ちながらやったんですよ。リハビリがうまくいったらとか、ちょっとでもそばにいたらよくなるかもとか。でも変わらないことが多くて。それなら自分が何かをして変えていかないといけないと考えたんです」

振りかえると小田島さんは、イタリアとフランスに1年ずつ滞在して2004年に帰国後して六本木の「小田島」に戻って以来18年間、稔氏と文字通り二人三脚で歩んできました。「人をめったに信用しない父が、僕のことは信用してくれた。やりやすかったんでしょうね」と小田島さん。とはいえ「いつか必ず来る日だと思って準備をしてきました」ともいい、寂しくショックを受けたなかでも、ポジティブに未来を描いていこうとします。

「腫れ物にさわるようにしても何もかわらないので、今は、父を『小田島を見守っている伝説の力です』と、まるでスターウォーズのヨーダのようなレジェンドキャラに仕立てて、療養中の父も輝けるようにしています(笑)」と、持ち前のポジティブな想像力で、小田島さんは未来をつくっていこうとしています。

「10年位前に、未来の『小田島』を想像していたのは、世界中の人たちがここに集まって、グラスをもって騒いでる風景でした。世界のワインをたくさん扱ってると、世界中の生産者が集まるんですよ。和食にワインを合わせることをはじめて行ったレストランとしての矜持もあります。和食がどんなワインにもあわせられることを伝えたいですし、10年経った今でもまだまだやれることはあると思っています」

父が倒れて考えた「ポジティブに未来を描くこと」
父が倒れて考えた「ポジティブに未来を描くこと」
父が倒れて考えた「ポジティブに未来を描くこと」

ヨーグルトのおくゆかしさに「自分もそうありたい」

「小田島」では、料理のなかでよくヨーグルトを使っています。まろやかな酸をもつ発酵調味料として捉えているからだそうで、たとえば夏に旬を迎えるアワビの料理では、蒸して厚切りにして出す際にかける肝のソースに液状ヨーグルトを加えると、肝の風味がやわらぎ、かつリッチなコクも加わります。ほどよい酸もワインと相性がよいのも、「小田島」らしい仕立てといえます。

「強い食材をやさしく受け止めてくれる、奥ゆかしさがある」と小田島さん。同じ乳製品の生クリームでは油脂分が重くなってしまうためヨーグルトでなければ出せないよさがあります。一方で、「ヨーグルトだけでは、メイン食材になりにくい」ともいいます。

「ヨーグルトの特徴は、主張しすぎないことだと思います。そこを無理に変えようとせず、むしろ『当たり前にどれだけなれるか』というように、主張しなくてもそこにあるような存在になっていければいいんです。無理にメインとして使うのではなく、いつも冷蔵庫にあるのだから、脇役としていろいろなものに合わせ、使い方を広げてみてはいかがでしょうか」

家庭で、ヨーグルトの活用法を広げるなら、白味噌の代用品としてヨーグルトを考えてみてみるのはおもしろいと小田島さんはいいます。たとえば酢味噌を白味噌と穀物酢と砂糖を混ぜ合わせてつくる際に、白味噌の量を減らして、ヨーグルトを加えます。ヨーグルト由来の乳酸と酢酸が、酢由来の酢酸の角をまるくし、やわらかい印象の酢味噌になります。乳酸をふくむ主に赤ワインとも相性がよくなります。

「市販のポン酢に、同量のプレーンヨーグルトを加えて混ぜあわせた、ポン酢ヨーグルトドレッシングも、ポン酢に奥行きが生まれるのに加え、ポン酢の酸味がまろやかになるのでお勧めです。ヨーグルトは、使い方によってはマヨネーズの代用品になるはずです」と脇役的な使い方を提案してくれた小田島さん。ヨーグルトに対してもポジティブな想像力は止まることを知りません。

「ヨーグルトのように、何もいわなくてもしれっとそこにいるポジションっていいんですよ。僕自身も、たくさん飲食店がある東京で、『小田島は何か知らないけど近くにいるな』という立場でありたいと思っています」と、最後には、ヨーグルトと自らの姿を重ねあわせた小田島さんに、ポジティブな想像力で人生を楽しもうとする姿勢が、未来を切り拓いていくことを改めて感じさせられました。

話をしてくれた人

小田島大祐

小田島大祐

1973年生まれ、東京都出身。「和食にワイン」のパイオニアである父・小田島稔氏が開いた「小田島」で高校時代からアルバイトをし、大学卒業とともに入社。勤務のかたわら、大学時代から続けていたラクロス選手として活動を続け、1998年のワールドカップで日本代表に選ばれ、本大会にも出場し活躍する。2002年に南イタリア・プーリア州、2003年にフランス・ブルゴーニュ地方で各1年ずつの研修をし、ワイン生産者のもとでワインを学んで帰国した。2004年よりある父・小田島稔氏と共に働く。JSA認定ソムリエ、 WSETレベル3。

フォトグラファー

大城為喜

滋賀県甲賀市出身。ポートレート、ライフスタイル系メディアなどを中心に活動。

Webサイト
https://www.oshirotameki.com/

記事を書いた人

江六前一郎
江六前一郎

千葉県八千代市生まれ。食の編集者。2012年から7年間、食の専門誌『料理王国』の編集部に在籍し、のべ400店以上の飲食店を取材した。副編集長も経験。2020年からフリーに。雑誌・web、地方自治体や企業のオウンドメディアの企画・編集・執筆を通して、レストラン体験の素晴らしさやシェフの個性や独創性を広く伝えることを目指す。

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